やなせたかし先生から学んだ教育者としての生き方

コラム

河浜塾開校の原点と恩師との出会い

私、河浜一也が学習共同体河浜塾を開いたのは、1982年の9月のことでした。当時、私は広島大学総合科学部で、伊藤護也先生という法社会学の世界では非常に著名な学者のもとで学んでいました。伊藤先生のゼミは知的刺激に満ちており、多様なバックグラウンドを持つ学生たちが集まる場でした。同じゼミ生の中には、その後『プレジデント』誌の編集長として名を馳せることになる人物もいました。

このような環境で学んだ経験から、よく「河浜先生はたくさんの有名人と付き合いがあるね」と言われることがあります。確かに振り返ってみると、私は偶然にも多くの著名な方々とお付き合いをさせていただく機会に恵まれてきました。政界では総理経験者の方々、音楽界ではカリスマ的なクリエーターから国民的人気を誇るアーティストまで、幅広い分野の方々との出会いがありました。

しかし、その中でも特に私の人生観や教育観に大きな影響を与えてくださったのが、「やなせたかし」先生でした。言うまでもなく、国民的キャラクター「アンパンマン」の生みの親として知られる偉大な作家です。

「詩とメルヘン」との出会いが変えた青春時代

私が中学校1年生だった頃、『詩とメルヘン』という雑誌が創刊されました。この雑誌は、一般読者が詩やショート童話を投稿できる画期的な媒体で、作品には美しく魅力的なイラストが添えられていました。当時の私にとって、この雑誌は まさに文学的な憧れの象徴でした。毎月発売日を心待ちにし、手に入れるとむさぼるように読み耽りました。その世界観に完全に魅了された私は、文学への情熱を育んでいったのです。

この『詩とメルヘン』の編集長を務めておられたのが、やなせ先生でした。当時の先生は、まだ世間的には無名に近い存在で、漫画家、詩人、絵本作家、そして雑誌編集長という複数の顔を持つ多才なクリエーターでした。経済的にも決して恵まれていたとは言えない状況の中で、創作活動を続けておられました。

興味深いことに、先生が徐々に注目を集め始めた時期と、私の中学・高校・大学時代がちょうど重なっていました。現在では誰もが知る「アンパンマン」も、その頃はまだ童話として数編が書かれ、『詩とメルヘン』誌上に登場する程度でした。また、フレーベル館の月刊絵本「キンダーおはなしえほん」にも掲載されていたことを記憶しています。今思えば、後に国民的キャラクターとなるアンパンマンの原型を、私は青春時代にリアルタイムで目撃していたことになります。

運命的な出会いと文学への導き

やなせ先生と初めて直接お会いしたのは、私が大学2年生の時でした。当時の先生は既に50代半ばを過ぎておられたと思われます。先生は若い才能を見出し、詩に志を持つ者を育てようという強い使命感を持っておられました。まだ駆け出しの文学青年に過ぎなかった私にも、温かい眼差しを向けてくださいました。

その後、私が河浜塾を開校し、日々の教育実践に忙殺される中で、詩を書いたり文学的な活動から遠ざかってしまった時期がありました。そんな私の変化を、やなせ先生は心から残念がってくださいました。「君の才能を埋もれさせてはいけない」という先生の言葉は、今でも私の心に深く刻まれています。

先生のアドバイスと励ましを受けて、私は再び創作活動に取り組むことを決意しました。そして開校5年後、私の最初の著作である詩集『ブレンド・珈琲』を完成させることができました。この作品は、やなせ先生の的確な指導なくしては生まれなかったでしょう。文学と教育、一見異なる二つの道を歩む私にとって、先生は貴重な理解者であり、導き手でした。

アンパンマン誕生と先生の大ブレイク

詩集『ブレンド・珈琲』が完成したその同じ年、日本テレビでテレビアニメ「それいけ!アンパンマン」の放映が開始されました。この番組は、子どもたちの間で爆発的な支持を受け、昭和天皇陛下のご病気による世間の自粛ムードという逆風の中でも異例の大ヒットを記録しました。キャラクターグッズの売り上げも当初の予想をはるかに上回り、やなせ先生は一躍時の人となったのです。

驚くべきことに、やなせ先生が真の意味での「大成功」を収められたのは、70歳間近という年齢でした。現在の私よりもさらに年を重ねてからの大ブレイクだったのです。この事実は、年齢に関係なく夢を追い続けることの大切さを教えてくれます。教育者として多くの生徒たちに接する中で、「もう遅い」「年だから」といった言葉を聞くことがありますが、やなせ先生の人生はそうした固定観念を打ち破る最高の実例でした。

愛する人との別れと新たな人生の始まり

1993年、やなせ先生にとって人生最大の試練が訪れました。最愛の奥様である暢(のぶ)さんが他界されたのです。暢さんは、現在放送中のNHK朝の連続テレビ小説「あんぱん」の主人公のモデルとなった方です。ドラマでは幼なじみとして描かれていますが、実際のお二人の出会いは社会人になってからでした。

やなせ先生が高知新聞に中途採用で入社した際、配属された机が暢さんの机の真正面だったそうです。先生ご自身がよく語っておられたところによると、これは完全な「ひとめぼれ」だったということです。この出会いから始まった愛は、やなせ先生の創作活動の大きな支えとなっていました。

エンターテイナーとしての新たな挑戦

奥様を亡くされてからのやなせ先生は、それまでとは大きく変わられました。ご自身を意識的に「愉快で面白い人物」として演出し始められたのです。「漫画家は、言うことも やることも漫画的に面白くなければ…」という信念のもと、トレードマークとなったテンガロンハットにサングラス、カウボーイのウエスタンブーツという印象的ないでたちで、全国各地のイベントに登場されるようになりました。

また、やなせ先生は大変な歌好きでもありました。ご自身が作詞・作曲された楽曲をよく披露されていました。率直に申し上げて、その歌唱力は決してプロ級とは言えなかったかもしれませんが、その点を指摘すると先生にお叱りを受けそうです。私が音楽活動をしていることを知ると、先生はますます大きな声で歌を歌ってくださいました。そんな自然体で茶目っ気たっぷりの先生の人柄を知る者にとって、テレビで見る先生の姿は実物とはかなり異なって見えたものです。

私自身は暢さんにお会いしたことはありません。暢さんは1993年に75歳で亡くなられました。その後約20年間、やなせ先生は創作活動を続けながら、全国の子どもたちに愛と勇気のメッセージを送り続けてこられました。

最後の別れと受け継がれた想い

2013年、私がラジオ番組のメインパーソナリティとしてスタジオにいた時のことです。番組の最中に、やなせ先生の訃報が届きました。その瞬間、言葉では表現できない深い悲しみが胸を襲いました。同時に、先生から受けた数々の教えが鮮明に蘇ってきました。

やなせ先生は生涯を通じて実に多岐にわたる活動をされました。漫画家、詩人、絵本作家、編集者、作詞家、舞台演出家など、その才能は多方面にわたっていました。しかし、先生はいつも「自分は一漫画家だ」とおっしゃっていました。どれほど多くの分野で活躍されても、核となるアイデンティティは揺るがなかったのです。その意味で、やなせ先生は真に「一筋に生きた」人でした。

教育者として歩み続ける決意

やなせ先生の生き方を振り返る時、私は自分自身の人生を重ね合わせずにはいられません。私もまた、塾経営、教育指導、執筆活動、音楽活動など、様々な分野に関わってきました。しかし、それらすべての根底にあるのは「教育」への情熱です。やなせ先生が「一漫画家」であり続けたように、私は「一教育者」であり続けたいと思います。

河浜塾を開校してから40年以上が経ちました。この間、数千人の生徒たちと出会い、それぞれの成長を見守ってきました。生徒一人ひとりが持つ可能性を信じ、その才能を開花させる手助けをすることが、私の使命だと考えています。やなせ先生がアンパンマンを通じて子どもたちに「愛と勇気」を伝え続けたように、私は教育を通じて「学ぶ喜び」と「成長する勇気」を伝えていきたいのです。

年齢を重ねた今も、やなせ先生から学んだ「諦めない心」「創造し続ける情熱」「人を愛する温かさ」を胸に、人生最後まで教育者として駆け抜けるつもりです。それが、偉大な先生への恩返しであり、私自身の人生を全うする道だと信じています。


河浜塾では、一人ひとりの個性を大切にし、生徒の可能性を最大限に引き出す教育を実践しています。学習に関するご相談は、いつでもお気軽にお声かけください。

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